Mini ejini sur sult tug tumen jil orshitugai

Mini ejini sur sult tug tumen jil orshitugai
Altan haan hiiget tuuni sayid tushimeed

2010年3月17日水曜日

Oyun uhaan

理性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
理性(りせい、希:λόγος→羅:ratio→仏:raison→英:reason)は、人間存在に本来的に備わるとされる知的能力の一つである。平たく言えば推論(reasoning)能力である。世界理性というときは人間の能力という意味ではなく、世界を統べる原理、という意味である。

哲学における理性 [編集]
知性と理性の区別はギリシア哲学におけるヌース(知・叡智)とディアノイア(dia 経由して + noia 知: 間接知・推論知)の区別に基本的には由来する。また、古典ギリシア語では論理と理性を表す語はともにロゴスであったが、このロゴスという語は古典ギリシア語で元来は、比や割合という意味を有していた。そこから、ラテン語でも同じ意味を持つ日常語であったratioがロゴスの訳語とされ、ロマンス語や英語で理性を意味する語もその流れを引き継いだ。セネカによればこれはキケロによる訳語であるという。

こうした語の由来は、西欧の伝統において、理性や論理を類比的な方法・秩序として考える傾向をもたらした。こうした、理性的推論を比例モデルで理解する時一番典型的なのが、三角測量や、特定の時刻での影の長さと棒との比例関係から、直接計れないピラミッドの高さを、その影の長さを基にして推論するような場合である。

現代の英米圏の哲学(分析哲学)にしばしば見られるように、理性は日常的に悟性(狭義の知性)と混同した用法で(広義の知性として)使われるが、スコラ哲学以来の西洋哲学の伝統では「推論・論証的能力としての理性」と「対象を把握する(understanding)能力としての悟性」とを区別するのが普通である(明晰性、妥当性は前者に、直観は後者に属する)。

理性と情動 [編集]
理性(あるいは高次の認知能力)は伝統的に、感覚(senses)、感情・情動(feelings、emotions)、情念(passions)等と対比的に用いられてきた。理性は純粋に精神的能力であり、情動は肉体的な作用であると考えられることもあった。例えば、非常に騒がしい場所にいる時やひどく悲しんでいる時には理性的な判断を下すのが困難になる。

近年、行動経済学と実験心理学は理性的な熟慮がかならずしも合理的な判断を引き起こさないことを示した(認知バイアス)。心理学の機能主義学派は情動をヒトの生存と結びついていると考えていたが、同様に進化心理学は認知バイアスや情動的直観が必ずしも不合理ではなく、特に我々の祖先の時代の環境では合理的な判断に結びついていた可能性を示した。これは理性と情動・感情が相互作用的または並列的に判断や意思決定に関わっていることを示唆する。これは二重過程理論あるいは二重プロセスモデルと呼ばれている[1]。スタノヴィッチはこれまでに提案された二重プロセスモデルに類似したモデルを列挙している。それらは詳細は異なるが、次のような共通点を持つ。

理性的システム-ゆっくりと働き、長期的な利益を勘案することができ、主に大脳新皮質に司られている。進化的な起源は比較的新しい。
情動システム-即座に働き、短期的な利益(主に生存・繁殖)に関わり、主に大脳辺縁系に司られている。進化的な起源は古い。
二つのシステムがどのように相互作用するかには、これらのモデルの提唱者の間でも合意がない。状況や判断の内容によってもことなる可能性がある。

Voolter

Gun uhaan

啓蒙主義の諸相 [編集]
政治思想 [編集]

人工の怪物としてあらわされた国家、リヴァイアサン口絵
フランス革命を思想的に準備したルソー啓蒙主義的な政治哲学は、まずトマス・ホッブズによって体系的にまとめられた。ホッブズは国家理論を形成するに当たって、既存国家をモデルとせず、理念型としての契約国家を想定した。これはまず、現実の人間観察から文明社会以前の原始状態にある人間社会を想定し、それを自然状態とした。さらにこの自然状態と現実的な国家社会の間に一種の飛躍を想定し、それが何らかの契約であるとした。この契約によって規定される人工的な国家の理念型がすなわちホッブズのいう人工生物「リヴァイアサン」である。この人工国家の特徴は主権という形で国家意志をもつことであり、主権は構成員たる国民や宗教、政策など国家に付随するあらゆることを服従させると説かれた。このような原理的な国家モデルを提供し、その契機になんらかの契約を重視する考え方を含んでいるのが啓蒙主義の国家論の特徴である。

ホッブズの理論を批判的に発展させたのがジョン・ロックである。ロックは1689年にTwo Treatises of Government『市民政府二論』(あるいは『統治論』)を発表し、ホッブズにあってなお不十分であった主権の分析を徹底した。すなわちホッブズにおいては主権は国家の構成員たる国民の契約で形成されているのにもかかわらず、国民と直接の関係性をもたない第三者的存在であった。これでは国民は契約によって成立した主権に対してはどこまでも従順でいなければならない。しかしロックはこの主権を国民の代表が参加する立法機関によって規定されるものとした。すなわち立法権が主権である。そしてこの立法機関は人民の信託により成立し、決定は多数決によるとされた。同時に主権が国民の意思に反する場合は抵抗権を行使することができると説いた。また清教徒革命の宗教性を批判して宗教的寛容を主張したロックは、国家論においてもその立場を主張している。

こののちジャン=ジャック・ルソーによって啓蒙主義的な国家論が大成される。ルソーは『社会契約説』において、ロックよりも分析をすすめ、国民と政府を機構的に分離させ、主権を国民に設定した。そのためルソーにおいては主権に対する抵抗権は存在しない。政府は主権を保持していないので、国民はよりラディカルな姿勢で政府転覆をはかることが可能である。またルソーの理論に特徴的なことは、ロックにおいて見られた永続的な立法機関が存在しない。立法は人格を備えた立法者によっておこなわれるとされ、このような人格的な立法はライフ・サイクルを伴う。つまり政治的存在である国家は必ず堕落すると考えられていたのである。このようなルソーの理論の特徴はフランス革命を理論的に準備したといえる。

さてこのような主権概念に大きく依存した国家観は、ルソーの思想がフランス革命を準備したにせよ、啓蒙思想の時代でさえすでに時代遅れのものと考えられていた。ヴォルテールは社会契約説を歴史的事実として認めていないし、彼は政治的な平等主義を認めていない。ヒュームは国家形成の契機としての社会契約を完全に否定して、個人に社会性を調達するものは共感であり、実践の世界ではあらゆる物事は慣習的な、したがって社会的な基盤をもつと考えた。

また国家理性としての主権概念も絶対的な地位から転落していく。マイネッケが指摘しているように、国家理性の利己主義を法や道徳の要求と一致させようという啓蒙主義の試みは基本的に不毛であった。啓蒙主義的政治思想が明らかにした国家理性と国民の道徳意識との乖離は啓蒙主義的な国家観の限界を示し、現実的にはフランス革命の進展に伴って保守主義の立場から深刻な批判が加えられることになる。日本の憲法論や天皇機関説にも大きな影響を残した19世紀の国家学者イェリネックは『一般国家学』のなかで主権概念を国家権力それ自体ではなく、その一部としている。

倫理思想 [編集]

啓蒙主義の倫理思想に激しい批判を加えたヒューム
倫理思想から啓蒙主義を追放したカントロックが『人間悟性論』によって観念の生得性を否定したことは倫理思想においても大きな影響を及ぼした。ロックにおいては倫理学的本質が実在的性質を持ち、経験的に把握されると説かれた。これは純粋理性と実践理性による推理を同質なものと見なす素朴な考え方に基づいており、理性レベルにおける良心の共有というような曖昧な証明にとどまっている限り、認識論の深化によって糾弾されるべきであった。

実際啓蒙主義が純粋理性的認識と実践理性的認識を等価値にしていたことは、倫理的な問題をしばしば機械論的人間論に還元してしまったり、社会による人間疎外の問題にしてしまった。純粋に道徳的価値が議論されることは稀であった。モーペルチュイは『道徳哲学試論』のなかで快と不快によって量的にあるいは幾何学的に道徳的価値が判断可能であるとした。またヴォルテールはしばしばパスカルの懐疑論を批判したが、積極的な倫理思想を展開することが出来ず、現実肯定的に「寛容」を主張するにとどまった。パスカルに比べると啓蒙主義の倫理思想は概して表層的であった。

ヒュームは『人性論』においてロックの経験論的立場を徹底させ、あらゆる観念の理性による基礎付けを否定した。実在的本質と理性的推理の間に連関はなく、あるのはただ原因と結果のみであり、一般に理性により普遍で不変とされていたその推理過程は、一種の蓋然的な法則にすぎない。すなわち純粋理性の否定である。またヒュームによって実践理性の領域である道徳を純粋理性の真偽と同じように判断することは不可能であるとされ、それらは行為や事物の実践的把握に必然的にともなう印象によるとされた。この印象は共感というかたちで一定の社会あるいは人々の間に共有されているものであり、社会的基盤を持つ。この共感が社会的基盤をもつということは、道徳的価値判断が純粋理性によるものではないことを示しており、ヒュームは純粋理性と実践理性を分離するとともに、啓蒙主義的立場による道徳の把握に根元的な批判を加えた。

ヒュームの重要な指摘を継承し、啓蒙主義以後の倫理思想を支えたのはベンサムら功利主義とカントに始まるドイツ観念論である。

ベンサムはヒュームの上述の指摘を受けて、道徳的原則が社会的基盤を持つという立場をより深化させ、社会的基盤から生じる人間の根本的な要素として快楽と苦痛を設定した。『道徳および立法の諸原理』のなかで快楽と苦痛を数学的に計算することで、道徳的問題は解決可能であるとした。この著作が立法的な問題にも触れているということが示すように、ベンサムはこれらの道徳原則はそのまま社会の立法原則にも適用可能であるとした。

ベンサムの理論を批判的に発展させ、ある意味ヒューム的立場に回帰させたのはジョン・スチュアート・ミルである。ミルはベンサムの快楽と苦痛による単純な理論を批判して、勇気や誠実といったような質的な評価も考慮すべきと述べた。また道徳的制裁としてベンサムが法律による規制などの外部的制裁を重視したのに対し、ミルはヒューム的で内面的な良心を設定し、外部的制裁以上に重要なものであると述べた。

以上の功利主義は経験論的な伝統にたっており、先験的な超越論的道徳論には批判的でその意味においてイギリス経験論の正統な後継者であった。また方法論的には心象を重視する心理学的立場をとった。

イマヌエル・カントはヒュームによってうちたてられた純粋理性と実践理性の分析的立場を継承し徹底した。彼はヒュームに従って純粋理性を否定した。すなわち『純粋理性批判』によって純粋理性の外界である物自体を想定し、それを経験則から分離した。一方で実践理性には物自体や経験則とは別個に実践主義的な原理を想定し、それを格率と名付けた。この格率は個別的に個人に存在するものであるが、同時に何らか普遍的な道徳法則との同一性を目指すものと規定した。カントは普遍的な道徳法則とは、ある行為にたいして無条件的に「こうしろ」と命令する定言的命令にあるとした。普遍的な道徳法則の行為主体は目的自体として物自体と同じように個人の実践理性(すなわち格率)の外側に設定した。カント以前の道徳哲学は理性主義を取るにせよ、必ず個人の内面に道徳的原則を設定していたが、カントによって目的自体(定言的命令として表現される)と格率という形で分離が果たされ、同時に不可知論的立場が設定されたため、啓蒙主義的理性主義は道徳哲学からも追放されるに至った。

歴史研究 [編集]

歴史研究を政治理論に活用したモンテスキュー
歴史に根本法則を見つけようとしたヴォルテール18世紀が「非歴史的」な世紀であったというロマン主義の主張は正しいものではない。啓蒙思想は諸国家の歴史を等価値にある種の法則性のなかに還元しようとしたが、それは啓蒙主義の「非歴史」性の証明にはならない。なによりギリシャ・ローマの古典古代に対するこの時代の関心の高さは逆に啓蒙主義の「歴史性」を裏付けている。(詳細は啓蒙主義の歴史記述を参照)

歴史学において啓蒙主義的転回を実現したのはフランスのベールである。彼は『歴史批評辞典』を著し、事実的なものをそれ自体として愛好する立場を示した。このことは中世的な神学的歴史観が神の意思や客観事実から個々の具体的事実へと考察を始めていたのに対し、具体的事実をそれ自体として尊重する立場を示した。

モンテスキューはベールの立場から一歩進めて、歴史的事象から理念型を取り出し、その現実的な社会科学への応用を実践した。『法の精神』における政体論は歴史的に存在する政体を構造的に分析して構築された理念型に基づいている。これらの概念は歴史的政体の共通性を抜き出して一般化した抽象概念ではなく、歴史の研究を通じて得られたそれらの本質である。これらの政体概念は普遍性を備えており、現実社会の評価に適用可能であるとされた。しかしモンテスキューは同時に、このような理性の産物である政体概念をつねに現実の社会状況にさらして批判的に見ることを決して忘れなかった。彼独自の「中庸」な視点はモンテスキューがいまだ啓蒙主義的に徹底されていないことをあらわすとともに、彼の学問的価値が啓蒙主義を超えていたことを示している。

ヴォルテールは歴史研究に自然科学的手法をより厳密に適用しようとした。彼は『風俗試論』のなかで、個々の歴史的事件から帰納的に導かれるなんらかの根本原則を想定し、それを把握することにつとめた。このことは表面上従来の神学的歴史観への接近を示しているように思われるが、神学的歴史観が目的因の実現過程として歴史を示したのに対し、彼はそのようなものに代わる何らかの心理学的原因を求めようとしたと思われる。彼は神学的歴史観の代表であるボシュエの『世界史論』を激賞しつつ、歴史的事件に神学的な意味づけをしていることが誤りだとして「絶えず純金に贋の宝石を嵌め込んでいる」と批判した。『ローマ帝国衰亡史』を著したギボンもヴォルテールの影響を受けている。

ヒュームはヴォルテールに見られた蒙主義的傾向を、自身の理性批判的精神によって批判した。ヒュームは歴史的世界の根本原則のようなものを否定した。

ドイツのヘルダーは抽象的な歴史原則を最終的に否定し、啓蒙主義的な歴史観に終止符を打った。彼はライプニッツのモナド論に影響されて、個々の歴史的事実を球になぞらえ、球が重心を持つように、個々の歴史的事実も核心を持つと説いた。

Erden Mongol ules

Bi uceeder nig saihan yum olj medvee.manai Mongolin eweg deedes min Yig Mongol Ulesi baigelen durwen un tawen harin ulsi jahirj yawegdaan mashi olan juili setgeej bodej baijee.yamar yosoor tureen bosgooj yamar mergen argaar jahirgani durmeen jogchulhin tulee yig hayij shinjij bailaa.eweg deedesin min aruun uhaani horanguilegsen nig nom baideg.bi tuuni erden gemen unemlej bainaa.uunes hojim manai Mongol yuu bolj yamar yosoor tur ulsaan avchi yavhin tohai en nom mashi chihol uyildel ujuulj diildeg gemen bi bodej bainaa.odoo deer hun terelhiteni delhi anuu Faraantsu Amerkiin yosoor yavj jamnaj bain gej helj boldeg baihaa.bidni Mongol muun en yosi tahiij tuuni nomleleer jamnaj bainaa.harin mini bodhoor yur Mongolihaan unurtai tur yosni deer Amerkiin jasgin durmi orulen avwel yamar gemen setgedeg yumaa.Mongol huni uhaan setgeld Mongolin erteni yos yarangui tohiren daa.hajuu ayilin humsuud hiiged delhin ahan duunarin emen avchi gargaahed bas nuur charaid min gerel gilwaa nemej ogdeg biz.eweg deedesin sechin uhani emen odoni ar uver alinchi gej dotu teneg shig haragdej bain daa.Mongolin erteni uhaan mashi delgereg boltogai!

2010年3月6日土曜日

Mangus

我,生怕魔鬼在朦胧中迁走我的灵魂,将我变成奴隶。

Gajar ujij yirlee

Bi uceeder 5d Yaponi juun hoyit nutgaar ochij gajar ujij yirlee.oorihaan naijtaiganchi uuljilaa.Yaaru baigaa sodelgani ajil mini jureg setgeli yadergaajil bainaa.hayaa hayaa yinhiij holoo yavj gajar ujih anuu mashi goyi yum bainaa.Shingansenaar yavsen bolhoor jam domd mashi olan juyili bodej suulaa.hojimin ajil tohayin ochir avhai huuhtin ochir sodelgani ajilin tohai ochir jichi Mongolin tohai jereg mashi olan er huni bodeh juyili setgen bodloo.hamag suulden nigelhen dunnelt olvaa.Sanaa sain bol zayaa sain.yur sain saihani bodej ajil sodelganaan hiij bosdi toseljil baiwel az jargaal yireed bainaa gemen horanguilvaa.mini en sanaa bat togtatugai!

2010年3月1日月曜日

Yaagsan saihan ohen yum vii---Kim yu na


Orchim Kanada olseed ewelin Olimpikin horal owedegshi yeheer yawegdelaa.mini gert Tilwis baihui bolhoor tuuni tohai saihan ujij amjisengui baijee.Yapoon humsuud jundeen yaraad baidag bolhoor bi en oroi toshai Youtube deerees emen Solongosin Kimyunain tohai eerj uzlee.tuuni beye jus urlig buhun yostai goi bainaa.bi odaan eder yingij setgel dogtoloogui baigsanchin en oroi mashi yeheer hudeljee.saihan ohen yum bainaa.harin Kimyunain jusen mini naij ohentai yehe tustai bolhoor tuuni ulam sanah boljee.Kimyunaa--chmd amjilt husi!